なぜ日本では顔認証技術の社会実装が進まないのか?――現代中国・イノベーションの最前線
低コストで普及が進む、中国の顔認証決済
コンビニエンスストア・チェーンのセブンイレブン中国華南地区は5月、約1000店舗に顔認証決済レジを導入すると発表した。顔認証決済とは、客がレジについているカメラに顔を見せれば、アリペイやウィーチャットペイなどのモバイル決済サービスを通じてお金が引き落とされ、支払いが完了するしくみである。お金は登録されたモバイル決済の口座から引き落とされる。お財布が不要になるスマホ決済が流行りつつある日本だが、中国ではスマホすらもいらない顔認証決済が普及しつつある。
顔認証決済にはどのようなメリットがあるのだろうか? セブンイレブン華南地区の徐勝利副総経理は中国メディアの取材に次のように答えている。同社は顔認証決済をまずは2店舗で1カ月間試し、その後50店舗に拡大してさらに1カ月テストを続けた。その結果、「短期間で利用者が急増した」「他の決済方式と比べて、支払いの効率が20~50%向上する」「会員登録やクーポン利用が5~6倍に増えた」などの絶大な効果が上がったとして、全店舗への導入を決めたという。
なるほど、筆者も大量の会員カードを保有しているが、もはや財布に収まりきらないため、持ち歩くのはやめた。ポイント集めより身軽さを選択した次第だ。だが、顔認証決済ならば、会員カードは不要だ。ポイント集めも会員価格での割引も一切の面倒が省略できてしまう。無精の筆者でもこれならば会員特典の恩恵にあずかれそうだ。
もちろん、店舗側にもメリットはある。顔認証によって確実に顧客本人が来訪したことをチェックできる。また、セブンイレブンが導入した顔認証決済はモバイル決済サービスと紐付いているので、電子クーポンを送ることで精度の高いマーケティングが可能となる。
今回、セブンイレブンが導入した顔認証決済レジは、中国EC(電子商取引)大手アリババグループがリリースした蜻蜓(トンボ)2.0という端末だ。今年4月にリリースされたばかりの新機種だが、驚くべきはその価格である。なんと、1台1999元(約3万1000円)で購入できてしまう。昨年発売された初代と比べても3割近く安くなったという。
この価格ならば、大手小売店のみならず、個人経営の小店舗ですら導入が可能だ。実際に私は中国の街をぶらついていて、個人経営のスーパーに顔認証決済レジが導入されているのを見て驚愕した。
アリババグループのライバルであるテンセントも対抗し、7月31日に青蛙PROという顔認証レジ端末を発表した。トンボを餌にするカエルを名前にしたところからも蜻蜓への対抗意識がむき出しだ。値段はまだ未発表だが、競争力のある低価格になると見られている。
顔認証はもはやコモディティ化した技術?
「顔認証はすごい技術!」との印象をお持ちの方は多いのではないだろうか。筆者は中国のニューエコノミーを取材することが多いのだが、編集者から「顔認証とか、サイバー感あふれる中国のイケてる写真を撮ってきてください!」と依頼される頻度も高い。
その「すごい技術!」が気づけば家族経営のパパママ・ストアにすら導入できるぐらいありふれた存在となっているわけだ。そう、顔認証の技術は特別なものではない。蜻蜓2.0は決済端末大手の商米(サンミ)とアリババグループが共同で開発したものだが、約300のサプライヤーが競い合って商米が勝ち残ったという。つまり、同様の端末を開発する能力を持った企業が300社もあるのだ。希少価値を失ってありふれた存在になることをコモディティ化というが、顔認証はもはやコモディティ化した技術と言っても過言ではない。
となると、気になるのはなぜ日本では顔認証決済が皆無に近い状況なのか、ということではないだろうか。消費者にとっても、店舗にとってもメリットがある。技術もこなれてきている。それなのに日本では実験店舗をのぞいては、ほとんど導入される気配がない。これはなぜなのか?
日本企業は顔認証の技術を持っていないから……ではない。特許情報の分析、評価を行うパテント・リザルトによると、顔認証関連技術ではパナソニック、NEC、オムロン、キヤノン、東芝が有力な特許を保有している。昨夏から主要空港に導入された顔認証ゲートはパナソニックが開発したものだが、読み込みの精度、スピードともに高く、多くの日本人旅行客が利用している。日本企業も十分な技術力があるわけだ。
よく目にするのが「中国はプライバシーに配慮していないため」という解説だ。日本をはじめ、先進国ではプライバシーを守るため、顔認証の導入にはきわめて慎重になっている。そのため技術があっても、なかなか一般社会で使われるような製品は生まれない。プライバシーに一切配慮しない中国とは状況がまったく異なる、といった内容だ。
そうした解説は正確とは言いがたい。というのも、中国人もプライバシーに無頓着なわけではないからだ。プライバシーがらみの社会事件はいくつも起きている。
一例をあげよう。2017年にはIT企業の奇虎360(チーフー サンロクマル)が運営する水滴直播平台(水滴ストリーミング・プラットフォーム)が閉鎖された。これは、自分が設置した監視カメラ映像を遠隔地から簡単に閲覧できるというサービスで、離れた場所に住む親が倒れていないか子どもがチェックする、学校の教室風景を流して保護者がチェックする、オフィスや店舗の状況を経営者が監視するという使い方が多かった。ところが適切なアクセス権限が設定されておらず、中国各地の学校、住宅、オフィスが衆目にさらされていると話題になり、奇虎360はサービス閉鎖を決めた。
また、中国の有力ベンチャーキャピタル関係者を取材したところ、ある高級外食チェーンが顔認証の導入を検討したが、最終的に見送ったというエピソードを教えてくれた。入店時に顔認証を行うことで来店履歴を記録し、「前回注文された料理はこちらですが、もう一度注文されますか?」と店員がリコメンドしたり、「辛さ控えめとの注文があった」記録を確認したりと、より手厚い顧客サービスができるとの算段だった。メリットはあるがそれでも導入を見送ったのは、高級店は商談や密会に使われることが多く、顔認証の導入に対する顧客の反発が強いと予想したためだという。
なぜ日本では顔認証技術の社会実装が進まないのか?
中国の政策もプライバシー保護に動き始めている。2018年5月に施行された「情報安全技術個人情報安全規範」は、個人情報を管理する企業や担当者の責任を定めたものだ。個人情報のむやみな取得や第三者への提供、損害が生じた場合の対応に関する原則を制定している。この安全規範にのっとり、インターネット消費者協会はサービスとは無関係な個人情報を取得しているアプリに警告している。
中国製のゲームをスマートフォンにインストールした方ならば経験済みかと思うが、およそゲームとは関係がなさそうなありとあらゆる情報へのアクセス権限を求められて閉口することはしばしば。こうした行為をいましめているわけだ。
技術、プライバシーの問題ではないとすると、何が違うのだろうか? 筆者は社会実装に関する姿勢だと考えている。本連載の第1回で、中国のイノベーションは社会実装型だと説明した。その一部を再掲しよう。
新たなテクノロジーが開発されても、研究室での実験にとどまっている間は、社会を変えることはできない。どのようにして社会で利用するかは技術開発と同じく重要な課題だ。
東京大学の伊藤亜聖准教授(中国経済)は「社会実装型イノベーション」という概念を提案している。近年、注目を集める中国のイノベーションだが、新たな技術を開発するだけではなく、いかに速やかに社会実装を実現するかという面において、目を見張る取り組みを行っているとの指摘だ。
拙速を恐れずに果敢に導入する。国全体が社会実験に取り組むことで、中国は社会実装型イノベーションで他国をリードする存在となった。
拙速を恐れずに導入する。実際に社会で活用することによって問題点がクリアになり、解消するための規制が後から整備されるというわけだ。規制が固まらなければスタートが切れない日本とは真逆の社会だ。
いや、日本社会の課題はより深いところにあるかもしれない。規制が固まっても、まだ動けないのだ。顔認証に関して言うと、経済産業省は2017年1月にカメラ画像利活用ガイドブックを策定(2018年3月に改定)し、顔認証技術を活用するガイドラインを定めた。顧客の年齢・性別の推定、店内の行動履歴の収集、公共施設で人の多い場所を確認するヒートマップの利用、常連客の把握と行動履歴の収集ができるリピート分析など、およそ中国で実施されていることのほとんどが日本でも利用可能となった。
それでもなかなか導入は進んでいない。冒頭で述べたセブンイレブン華南地区のように、海外では成果をあげている事例があるため関心を持っている企業は多いが、リスクへの恐れから横断歩道を渡る最初の1人になりたがらないようだ。
どんなテクノロジーであれ、メリットとデメリットの両方がある。メリットを最大化し、デメリットを最小化する、そのバランスを追求する必要があるが、そのためには社会実装し、実際に活用しなければ問題点が洗い出せない。このことが広く理解されなければ、新しいテクノロジーの導入は進まないだろう。
高口康太
フリージャーナリスト、翻訳家
フリージャーナリスト、翻訳家。1976年、千葉県生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。二度の中国留学経験を持つ。中国をメインフィールドに、多数の雑誌・ウェブメディアに、政治・経済・社会・文化など幅広い分野で寄稿している。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『現代中国経営者列伝』(星海社新書)など。